「バカがたまに頭を使うとこうなる」

雑記
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皆さんはもう『科捜研の女 オリジナルサウンドトラック Part2』は買いましたか!?

CDブックレットには、川井憲次さんへのインタビューが載ってるぞ!
前回のサウンドトラックより、川井さんのコメントが長くて、しかも作品愛に溢れててオススメだ!
川井さんの『科捜研』観から、『音楽制作への考え方』『音楽制作の裏話』『マリコさんというキャラの捉え方』『好きなキャラ』『撮影スタッフとの裏話』なんかもあるぞ!
あくまでボリュームはCDのブックレット程度だけど、とりあえず買って損はないですから! 本当に!

収録曲は、とりあえず「え!? これって、こんな冒頭だったの!? こんな終わり方だったの!?」な曲がいっぱいありました。作中で流れてるのって、一部なんだなぁ。
音楽に関しては、本当に語るだけの知識も表現するだけの技量もないので、「とにかくすごい!」とか「“科捜研鑑定シーンごっこ”とか“藤倉刑事部長登場シーンごっこ”とか出来るよ!」ぐらいしか言えない……自分で自分のどうしようもなさにビックリしてる。

私はどうしようもないけど、サントラはすごいぞ! みんな、買おうな!!!

……公式サイトから、Amazonその他CD販売サイトへのリンクすら見当たらないってどういうこと……前回のとき、「Amazonへのリンクって……」と思ってたら、今回はそれすらないよ。いいのか、それ。

『逆転裁判 その「真実」、異議あり!』。第5話『逆転のトノサマン 1st Trial』

だから言ったじゃないか。「『大江戸戦士トノサマン』をアニメ化すべきだった」と。
冒頭の「特撮(という設定)ってレベルじゃねーぞ!」な動きと作画。あそこはノリノリで作られたんだろうなぁw そりゃ、あのクオリティなら真宵ちゃんじゃなくてもハマるわ。たぶん、現実の大きいお友達もこぞってハマると思う。というか、私ならハマる。
トノサマン部分と、この話の終身名誉ヒロイン・オバチャンの部分のクオリティが異常。もちろん、いい意味で。
相変わらず探偵パートは端折り過ぎで、シリーズのお約束『キャタツとハシゴ』がなくて残念でした、とか、間宮さん一言も喋ってない上にチラっと映ってた程度なのに最後の容疑者候補に上がってんのかよ! とか、そもそも裁判に有効な証拠をひとつも見つけられないまま法廷に立ってるよ! それでなんとかなってるって、いくらなんでもそれはヤベーだろ警察&検察! とか、まあ色々言いたいことはあるんだけど、正直トノサマンとオバチャンの破壊力だけで色々許せそうになるから不思議だ。やっぱり、そこらへんはこのシリーズの大事な要素ですよね。
さっきも言った通り、探偵パートを端折ってるのでオバチャンと接した時間も短く、「証拠見つからね! やべぇ!」感も薄いので、最後いくら依頼人のためとはいえ、はっきり「時間稼ぎのため」と明言してしまった理由のためにオバチャンに容疑が向かうよう仕向けてるなるほどくんがマジ外道に見えるw いや、ここは原作でも「ええ……」とは思ったけどさw
それでもオバチャンのキャラのせいか、最後に「ぶちまけちゃうよぉぉぉぉ」とかやってるのもあり、そこらへんが有耶無耶になってんのはすげーなと思う。やっぱりオバチャンって得難いキャラだわ。
『1』の中では一番キャラが濃い話なのもあって、アニメもようやく確変ターン来るか!? みたいな期待感を抱かせてくれる話でした。元々、どっちかといえばアニメはコミカル方面に振りたいのかな? と感じてたので、『逆転のトノサマン』が持つ濃さとちょうどいい感じでマッチングしてるのかな。

以下は今更『科捜研』の話とか、櫻井脚本の話とか、フィクションの話とか、感想の話とか。
いつも以上にワケわかんないことをグダグダと繋がりもなく言ってますので、さらっとスルーしといてください。それでも自分なりに書き留めておかないと、自分が考えたことなのに忘れちゃうアホなのです。

今年のコナン映画を観て「櫻井脚本はいいぞ」と親指を立てながら溶鉱炉に沈んでいく方が多いんですが、ファンの贔屓全開で個人的意見を言うならば、『科捜研の女』第15シーズン(特に最終章)でのまとめ方が「うおお、櫻井脚本だぁー!」と高まりましたので、もしご覧になってない方は次シーズン放送開始前後に再放送があると思いますので、是非シーズン通して観ていただきたいです。
今期『科捜研』のメインストーリーは櫻井脚本路線だったわけですが、私にとっての“櫻井脚本”の大事なところはよく評判になる後味がどうとかじゃなくて、『登場人物たちが如何に自分の“正義”に向き合い、考え、行動するか』というテーマじゃないか、と最近思うので、そういう意味で『科捜研の女』第15シーズンはドンピシャでした。まあ結局は、好みの話なんですが。
櫻井脚本のキャラって、大体が何かしらの“柱”(信念とか思想とか色々な表現ができるもの)を持ってるキャラが多くて、その“柱”に誠実に向き合えなかった人たちが道を外れてしまった結果、犯罪に手を染めてしまうという話が多いと思う。組織モノにしろ職人モノにしろそれ以外にしろ。
自らの“柱”を見失わなかった、或いは“柱”をしっかり維持してる人、或いはそれを取り戻した人なんかには、何らかの形で(ささやかだとしても)救済が与えられるというか。決してド鬱だったり後味悪かったりなだけが櫻井脚本じゃねーよ、と思う。
誤解なきように言うと、『純黒の悪夢』でもFBIや公安、警視庁の面々や謎の女性、もちろん主人公のコナンくんも、それぞれの信じる『正義』は確かに行動原理としてあったんだけど、それらが後半のスペクタクルアクションでかき消されちゃった感あってな……本当、色々勿体無い。私にとってはそんな映画です。
なので「今回のコナン映画は後味ビターで櫻井脚本節炸裂だったな!」と簡単にまとめられてしまうのは、「いやいや、そんな簡単にまとめちゃダメッス!」って叫びたくなります。なのでここで勝手に叫んでおきます。
『純黒の悪夢』の謎の女性の結末も、被害者家族が振り回され殉職者まで出した『科捜研の女』第15シーズン最終回も、決して後味悪いだけじゃなく、たとえ微かだとしても何らかの救いはあったと思ってる。
そしてその「救い」から何を思うのか、っていうのも、また大切なんじゃないかな。

全部に当てはまるかはわからないけど、フィクションの結末って、作者の思想とか信念とか、色々なものが滲み出ると思ってる。作者のしたかったこと、やりたいことが大なり小なり絶対に出る。
「受け手を楽しませたい!」でも、「これを訴えかけたい!」でも、それ以外でも。
その中でも、特にキャラクターに「救い」を持たせるって、フィクションだから出来る部分なので作者の「理想」とか「思想」とか、そういうものが一番反映されるところなのかなと。
なので話の結末で、どれだけ厳しい世界を描いていてもなんらかの救いを見せてくれる方が私は好きです。私は甘い人間なので。厳しい世界や現実からももちろん考えられることがあるけれど、フィクションだから与えられる「救い」から何かを感じ取れることだってあると思うんです。

で、そのお気に入りの『科捜研』第15シーズンですけどね。

今期のキーキャラ・死神落合刑事は正月SPラストの藤倉刑事部長の台詞からわかる通り、「マリコさんと土門さんのやり方の強烈なネガ的存在」だから、第15シーズンで描いてきた『死神の正義』に関する描写と結末はそのまま、藤倉刑事部長との対立から描いてきた「榊マリコのやり方は本当に正しいのか」というテーマの答えにも繋がってる気がしてます。
第13シーズンで藤倉さんが鑑識課長だった頃から投げかけてた問題に、ようやく決着つけたというか。
第14シーズンで藤倉刑事部長との対立には決着ついてたけど、問題そのものには答えを出してたとは思ってなかったので。
死神落合刑事との関わりでマリコさんたちが得た答えって、そこまでハッキリしたものではなく、「いつでも自分に正義を問い続けなアカンよ」という、生き方のヒント程度のものだと思ってる。
それって、「自分たちのやり方がいつでも正しいなんて過信してはならない」という、簡単に言えば驕りの否定なのかなって。
土門さんも言ってたけど、警察が持ってる権力を暴力的に振りかざすことがあれば、それは怪物みたいなもの。
だからこそ自制できるよう、いつでも「『正義』とはなんぞや」と自分に問い続けなくてはならなくて、それこそが唯一の「正しいやり方」なんだよ、ということなのかな、と。
マリコさんの立場で言うならば、以前、「第13シーズンの最終章のテーマは、“話し合うことの大切さではないか”」というのと、「“科学は万能ではない、でも嘘も吐かない”というのをマリコさんの口から聞けてよかった」というご意見をいただいていて、そうか、それらもまた第15シーズン最終章がハッキリ提示した答えと繋がっていたのかなと思います。今なら、当時は好きになれなかった第13シーズン最終章とか、第14シーズン警察犬回とかが好きになれそうです。
第13シーズン最終章は、「自分の『正義』だけでは物事は動かない」っていうこと。
第14シーズン警察犬回は、「万能ではないから、常に求め続けることが大切」ということ。
どちらも、第15シーズン最終章で描き出されたラストの答えのピースに見えませんか?
つまり第13シーズンから第15シーズンまでは、シーズンを跨いで全部が繋がった、ひとつのストーリーだったんだよ!
そう考えたら私にも、ようやっとここまでのシーズンのストーリーが訴えかけてたモノだとか投げかけられたモノへの見方だとかがわかった気がするよ!
今かよ! みたいな話ですけどね。今期『科捜研』が終わってからどれだけ経ってると思ってんだ、みたいな。
言い訳していいなら、個人的に上記の話で描かれた結末というか「救い」の部分に、納得いってなかったりなんだりがあったので……サントラ第二弾発売で、また作品を振り返ってたら、ようやくこれに思い至ったというか……

つまり藤倉刑事部長や死神落合刑事が紡いできた「マリコさんたちなりの『正義』の在り方」みたいなテーマは、今期でやっと区切りがついたんだと思います。
なので次のシーズンがあるとして、そこにまた新たなキャラを投入するなら、また違う切り口で別の何かを描き出すキャラになるのかな、と思いました。予想が外れたら、陰で指差して笑っといてください。

上記で唯一、第12シーズンというか芝管理官(当時)が出てこないのは、意図的というか当たり前の話で、彼女の描いたストーリーは確かにマリコさんたちの『正義』も表現してはいたけど、どちらかといえば「彼女自身がどう自分の『正義』を維持するか」という話だったと思ってるんで、また毛色が違うよねという。
そう、登場した対立キャラに『正義』を問うた後で、今度は違う対立キャラたちに自分たちの『正義』を問われていた、っていう流れなんじゃないかと。「そうは言うけど、じゃあお前らの持ってる『正義』ってのはどんなのなんだよ?」みたいな。
そういう意味では、第12シーズンからストーリーは続いてる、と考えてもいいのかな。
で、芝管理官も含めてなんだけど、ここ最近『科捜研』ではキャラの入れ替えが激しいわけですが、大体なんらかの「決着」「結論」をもって退場している。
それぞれ方向性や抱える問題の大小、結果的にどうなったか、という違いはあっても、「自分の在り方」にハッキリと明言できる「結論」を示して退場している、という。
権藤さんも泰乃ちゃんも佐久間刑事部長も木島っちも。あとシーズンにストーリー性が出る前だけど、美貴ちゃんも乾くんもそう。そういう意味では一貫してるなぁ、と。
第13シーズンクリスマスSPで再登場した芝監察官とマリコパパも、それぞれの退場回で描ききれなかった部分を補っているんだと思います。特にマリコパパはそれが顕著かな。
そうなると、第15シーズンで「自分の正義を探したくなりました」と言った蒲原青年も、その「自分の正義」を見つけたときに退場になるんか……ってことは、「早く『自分の正義』を見つけられるといいね」なんて言ってた私は、蒲原青年にすごく残酷なことを言ってたのか……いや、そこまで考えてなかった私がバカだっただけで、決して彼に早く退場しろと思ってたわけじゃないんだ。

……なんかすごく当たり前のところで思考がぐるぐる空回ってるような、逆にものすごく見当違いな物の見方をしているような。どっちだろう。どっちも違うかな。いつも以上に言ってることに自信がない。
ああ、やっぱり頭使うのは苦手だ! もういい! 私は大人しく、カッコかわいいマリコさんたちにきゃーきゃー言ってます! そうします!
でも、なんか「そういうテーマがあったから、こういう話があったのかな」とか考えながら改めて録画なり再放送なりを見ると、当時は好きになれなかった話でも好きになれる気がしませんか? 私はします。それでも受け入れられない話・嫌いな話はもちろんあるにしても。
たとえ見当違いでもワケわからんことでも、自分なりにどれだけ拙くても考えたり感じたりしながらフィクションに触れるって、それこそが楽しいし重要なことですよね。フィクション、特に娯楽作というのは、結局はどんな形であれ楽しんだ者勝ちだと思っておきます。

で、まとめ。ここまでグダグダ書いたことへの言い訳も含めてなんですが。
皆さんも既に御存知の通り私はただのキャラ厨であり、1ミリたりともストーリーについて深く考えて発言をしてないんです。
もっと言うなら、かなり適当で曖昧な記憶だけで「だった気がする」とか言い出します。
なので、普段の感想から「うわぁコイツ、バカなの?」と思われることが通常かと思いますが、正解です。本当に何にも考えずに観てます。自分でも、後々読み返すと「なに言ってんだコイツ」と思うことが多々あります。上記の意見も、後で読み返して自分のことながら呆れるかもしれません。
でも、敢えて当時の感想を書きなおすことはしてないです。それはそれで、当時の自分が思ったことなので。単純に面倒だっていう方が大きい気がしますが。
なので、発言に一貫性がないのは仕様です。感じ方も考え方も、時間が経つと変わるよね! と、ものすごく都合のいい言い訳だけしておきます。
これからは、せめて一旦深呼吸してから感想を言うようにしたい。脊髄反射のように言うのではなくて。

私は結局、何が言いたかったのだろう。
それも、是非この拙い文章もどきから「感じ取って」いただければ! 幸いです!
いや、自分でも結局何言ってるかわかんねーんだもんな。ダメだな。

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